ジャンカルロ・バルドリーガ

 僕がジャンカルロを知ったのは、1977年の9月。海を越えた付き合いは、この9月で32年になる。彼には3人の子供がいるが、今夏、末娘のイレーネが夫婦で日本に来た。これで、彼の子供たちすべてが日本に来たことになる。
 「ラ・ヴィータ・エ・ストラーナ(La vita e` strana.)!」。イタリアでよく耳にする。日本語訳は小椋 佳の愛燦燦に「人生て、不思議なものですね」という歌詞がある。これを当てさせてもらう。僕とジャンカルロとの関係は、まさにこの歌詞そのもの。彼と知り合いになったのは、僕が東京外語の大学院生の時だった。損害保険関係の労働組合が招待したイタリア側の代表がジャンカルロで、僕はその通訳だった。以来ずっと一緒に生きてきたという感じがする。娘が生まれる以前、エトリヴァンが創業する前からの付き合いになる。ここまで続いた理由は、自分にも分からない。
 ジャンカルロは、仕事の関係で15年近くローマとボローニャを往復する生活をした。僕も会社が借り上げたボローニャの家に泊めさせてもらった。その家は旧市街地のど真ん中で、便利なところだった。ここにいると昼間はひとりになるが、昼ご飯は彼が勤務する保険会社の従業員食堂で食べさせてもらう。終わると昼寝に家に戻る。6時ころになると150メートルくらい離れたエノテーカ・イタリアーナ(Enoteca Italiana) という立ち飲みのワイン屋で、自己流のワイン勉強を始める。赤、白各5本開いているワインを、グラス一杯ずつ注文する。だいたいは地元のエミリア・ロマーニャ地方のワインだが、これがかなり勉強になる。特に、ボローニャの西側のアペニン山脈斜面から生産されたものにいいワインがあった。たとえば、ピニョレット(Pignoletto)はその好例で、丘陵地の昼夜の温度差が香りを造りだしていた。ただ、日本ではこのワインは「シャバシャバ」だと言われて、今のところ不運だ。僕自身はそうは思ってない。つまみにはパニーノではなく、パンとサイコロ状に切ったモルタデルラソーセージを別々の皿に載せてもらう。ここの勉強代は、ユーロ時代になってかなり高くなった。
 このワイン屋で腹ごしらえをしてから、二人で夜のコンサートに出掛けることもあった。家のすぐ近くのコムナーレ劇場に弦楽四重奏を聴きに行ったのはいいが、前半のハイドンが終わって、後半のショスタコーヴィッチは睡魔との闘いで、とうとう二人で抜け出してしまった。マッジョーレ広場まで散歩して家に戻った。ボローニャは特別な感慨を覚える街だ。
 初めてモンタルチーノに行った時はレンタカーではなく、ジャンカルロの車を使わせてもらった。仕事でキューシ・キアンチャーノに行くというので、僕も一泊の予定で同行させてもらった。昼間は何もすることがなく、40キロほどの距離にあるモンタルチーノまで単独で行ってみる気になった。知っている名前はビオンディ・サンティ(Biondi Santi)だけで、ワイナリーに行ってみようというつもりもなかった。帰り途ですつかり方向感覚がなくなってしまって、ホテルに辿りついたのは9時近かった。当時は携帯電話もなく連絡のとりようがなかった。22年前の話。それにしても、なぜモンタルチーノだったのか、それは別の稿で記憶を辿りながら書きたい。
 仕事を開始して間もないころは余裕がなく、ジャンカルロの家に泊めてもらった。1987-91年は、ローマを起点にワイナリーを回った。ローマに着くと、まず彼の家で時差を解消した。翌日には近くのワイン屋、エノテーカ・バルドゥイーナ(Enoteca Balduina)に行って、そこの親爺の助言に従ってワインを購入した。買い集めたワインはジャンカルロの家の地下ガレージに保管しておいたが、これらがすべて盗まれる事件も起きた。
 ローマに行くたびに寝泊まりしていた家は、ベルナルディーニ(Bernardini) 通り21番地。広い家だった。飼い猫が一匹いた。ブリーチョラ(Briciola)という猫で、僕とはあまり友達にはなれなかったが、15年前に我が家で飼うようになった猫には同じ名前を付けた。日本生まれのブリーチョラは朝晩にインシュリンを必要としているが、すこぶる元気だ。
 僕が32年前初めて訪ねたジャンカルロの家は、ガーヴィ(Gavi)通り 32番地。13年前、今の住所、モンテプルチャーノ(Montepulciano)通り54番地に移った。ボローニャの借り上げ住宅がマルサーラ(Marsala)通り12番地。ベルナルディーニ通り以外、すべてワインに関係する。偶然と片付けるが、不思議なものを感じる。僕ら二人が好んで開ける白ワインは、ソーヴィニヨン、赤はマルゼミーノ。古希を迎えたジャンカルロは、「La vita e` strana」を思い、僕は「人生て、不思議なものですね」と空を仰ぐ。