有坂芙美子さんのこと

 有坂さんに初めてお会いしたのは、1987年の夏と記憶している。場所はシチリア島のタスカ(Tasca)のワイナリーだった。そのころの僕はまともな職業的知識もなく、行き当たりでワイナリーを訪ね歩いていた。ワインジャーナリストはまだ耳慣れない言葉で、駆け出し時代の僕にとっては距離を置かざるを得ない存在だった。有坂さんとの交流は、このときからすぐに始まった訳ではなく、彼女が主宰していたワイン情報誌『ヴィノテーク』に僕が寄稿するようになって、お付き合いが深まった。蒲田の倉庫を建て替えた時に、しばらく間借りしていた雑色の仮店舗を訪ねて来られた。寒い季節で、石油ストーブを囲みながら赤ワインを何本か開けた覚えがある。また、倉庫が完成した時には、ワイン仲間を誘ってお祝いに来てくれた。これも10年以上前の話になる。1998年から続いているエトリヴァンの秋の試飲会には、欠かさず来てもらっている。
 有坂さんが翻訳された『バルバレスコよ永遠に』は、楽しい読み物だ。イタリア語版を手にとったが、自分の知識では追いつかなかった。バリックのことに関心があり、先日、バリックを製造するガンバ(Gamba)の工場を見学してきた。樽材の乾燥場の地面に、ところどころ黒くなっているところがあり、本に書いてあった「木の排泄物」とはこれだったのかと納得した。ワインとバリックの関係は、この書物の1990年2月19日の章に詳しい記述があり、興味深い。こういう知識を得てワインを飲むと楽しさが違う。
 有坂さんは、お会いすると「ワインを仕事にして人生を送れる私たちは幸せだよね」と語りかけてくる。僕はイタリアワイン専門の輸入業者、彼女はワインジャーナリストの草分け。していることは異なるけど、ワインに関わっている点は同じ。ただ僕のような輸入業者は雨後の筍みたいな状況を呈しているが、ワインジャーナリストには彼女に続く人はまだ少ない。最近、自分は有坂さんのような仕事がしたかったのでは、と思うことがある。そして、「してみたい」という思いに駆られる。それでも「やっぱり、自分はワイン輸入業で終わるしかないのか」と、諦めがつきつつある。自分にできたことは、ワイン販売にジャーナリスト的なタッチを加味したことかもしれない。それとも、ただただ長くしただけなのか。
 話はまったく変わる。有坂さんは青春時代を新潟県村上市で過ごされたとうかがっている。村上市は、日本海から遡上する鮭と最北限の茶産地で知られる町だ。実は、この鮭に思い出がある。僕の母は成田空港に近い田舎町に住んでいる。母のところには、宅配で取り寄せた村上の塩引き鮭がいつもある。どうして村上なのか由来はわからない。イタリアに旅立つ時、母は機内食は美味しくないからと言って、日の丸弁当を空港に届けにきた。村上の鮭、卵焼き、うなぎの蒲焼、シイタケの煮物がごはんと別の折箱に入っていた。飛行機が日本海に出ると、この弁当を開ける。「村上はどの方角かな」と、思いながらまずは鮭に箸を付けた。その母も今年86歳。危ないので80歳になった時にやめてもらった。有坂さん、イタリア、村上は不思議に繋がっている。
 有坂さんはクラシック音楽ファンで、このことも僕と共通する。来日したスカラ座の公演にも行ってきたと話していた。10月にはメンデルスゾーンの「讃歌」を聴きにサントリーホールにお誘いした。彼女もきっと「人生、ワインだけではつまらない」と思っているのではないだろうか。
 有坂さんは、エトリヴァン25年史を最初から知る数少ない人のひとりである。彼女の声援を背に、これからもワイン探しの仕事に励みたいと思う。