ブルネッロ・ディ・モンタルチーノの思い出

 エトリヴァンは、たしかにこのワインの輸入量が多い。また、輸入ワイナリーの数も同業他社とは比較にならないほど多い。ここに至った経緯は、原稿用紙数枚に書けるものでもない。それでも少しずつ書いてみる。
 唐突だが、まず自分の父親のこと。9年前に亡くなっている。学問がある父ではなかったが、歴史が好きだったらしく、イタリアと関係のありそうな日本の歴史について、それなりの知識があった。日本にキリスト教を伝えたとされるザビエル宣教師の右腕の一部がローマの教会に展示してあるとか、天正遣欧使節がヴィチェンツァを経由してヴェネツィアに至ったこと、そして、ヴィチェンツァのオリンピア劇場に少年使節を描いた壁画があることなどを知っていた。僕がフィレンツェに住んだ1993年の春には、とうとうこの絵の見学のために、ヴィチェンツァまで付きあわされた。また、使節がローマ法王を訪ねる時に列を連ねた道はカッシア(Cassia)街道で、そのあたりでは赤ワインができるらしい、とかいって地図を前に話を聴かされた記憶がある。僕がこの仕事に就いたばかりのころだから、1984〜85年のことではないか。とにかく地図の中で彷徨するのが好きな人だった。こんなことで僕の中では、カッシア街道、モンタルチーノ、赤ワインは何となく繋がっていた。
 初めてモンタルチーノに行ったのは、87年の初夏と記憶する。この時は親父が地図で指をさしていた程度の関心で行く気になったが、道に迷ってしまって、モンタルチーノの城壁に着いた時は夕方になっていた。それでも日が長い季節に入っていたので、町の感じはつかめた。暗くなってから再び道に迷うのが怖かったのですぐに出発したが、結局は道に迷ってしまって、車を貸してくれた友人に大変な迷惑と心配をかけてしまった。
 次にモンタルチーノに行ったのは、翌年の1988年だったと思う。この年の秋、たまたまフィレンツェのエノテーカ・ピンキオーリで、初めてブルネッロを飲んだ。ソムリエが勧めたものはタレンティの1983年で、なかなか良かった。そのころは、まだワイン体験が浅かったので、キアンティのかなり上のクラスを飲んだという印象だった。翌々日の昼には、もう僕はイル・ポッジョーネの館で昼食のテーブルに着いていた。83年ヴィンテージはすでに完売で、84年から輸入することになった。当時、タレンティは自分のところだけではなく、イル・ポッジョーネの面倒もみていたので、僕に「日本でイル・ポッジョーネの輸入先を探してくれないか」と話した。これといった当てもなかったので「自分がやります」と答えた。いきなり二つのワイナリーのブルネッロを輸入することになった。話を終えたころはもう夕方で、タレンティは「宿を用意してあるから」と言って、モンタルチーノの町中にあるホテルジリオ(Giglio)まで彼の車で先導してくれた。11月半ばの夕方、城壁に行ってみたが、人影はなく千里孤独を味わった。しかし、翌日は晴天の澄み切った好日で、すぐに城壁に登った。収穫が終わったぶどう畑が一面に広がっていた。丘陵が下りきったところにカッシア街道が見えた。もし携帯電話があったら、僕は日本の親父に実況中継をしただろう。地図上のモンタルチーノが、ブルネッロに置き換わった日はこんな感じだった。エトリヴァンが、初めてブルネッロと関わりを持った日でもある。
 89年の春から、年2〜3回のモンタルチーノ通いが始まった。タレンティで仕事が終わると、その日はモンタルチーノ泊りにして、城壁の中にある公設民営のエノテーカ・ディ・フォルテッツァ(Enoteca di Fortezza)で試飲を繰り返した。常時6種類くらいのブルネッロがグラスで飲めた。冬の初めに行って、ワインが冷たくて何もわからないこともあった。秋から春にかけての午前中は訪れる人はまばらで、この時間帯を狙って通った。当時の経営者(今も町の中で見かける)は、試飲するブルネッロを丁寧に解説してくれた。
 僕の一番の関心事は、ブルネッロ生産の伝統的地域はどのあたりか、ということだった。まず、このことをエノテーカの経営者にぶつけてみた。答えは咄嗟に返ってきた。コスタンティ(Costanti)をグラスに注いだ。根掘り葉掘り訊き出すつもりでいたのに、どうしたことかその日の朝は、ドイツ語を話す人たちの出入りが続いた。結局は何も訊き出せなかったが、次の勉強の流れのヒントは得た。コスタンティは、ビオンディ・サンティとも位置的にも近い。相当の長熟系のブルネッロを生産している点でも両ワイナリーは共通する。次は、モンタルチーノの町を挟んで南と北ではどうなっているのかを考えていけば、少なくともテロワールの関係については把握できそうだった。醸造方法、たとえばバリック使用の有無は、ブルネッロに関しては当時あまり話題になっていなかったので、これは後回しにした。
 エノテーカ・ディ・フォルテッツァでも、勉強用のブルネッロを買って日本に運んだ。旧市庁舎前のゴレルリの店でも、助言に従って地域別に買い込んだ。ジュゼッペ・ゴレルリは当時、生産者組合の職員として働いていたが、父親はブルネッロを造っていた。日本に送ったブルネッロは、91年ころまでに一応の試飲を終えたが、一人ではたいした勉強にはならなかった。やっぱり、そばにガイド役をする人がいないとダメだと思うようになった。となれば、イタリアに一年間住む以外にないという結論になり、家族を連れて1992年8月、フィレンツェに移り住んだ。モンタルチーノには月に1回のペースで通った。エトリヴァンのブルネッロパッケージは、これを機に一気に膨らんだ。一番多い時には、ブルネッロの総生産量の1パーセント弱を輸入していたらしい。様々な生産者に会って、畑を見せてもらい、そこに流れる風にも当たった。テロワールを理解するには、畑に立ってみるのが手っ取り早い。
 20年もブルネッロに関わってきた。さらにもっと多くのブルネッロを日本に紹介したい、と思っていた矢先に発覚したブルネッロ偽装事件。規定を守らなかったワイナリーは、一方的に責められて当然だ。しかし、このスキャンダルの背景は複雑で矛盾も孕んでいる。話を掘り下げる前に、ブルネッロについておさらいをしておこう。
 ブルネッロは、①原料となるぶどうは、モンタルチーノ行政区で収穫されたサンジョヴェーゼ(地元では別名ブルネッロ)に限る。②容量は問わないが、木樽で最低2年間熟成させる。③出荷は収穫の翌年から5年目、と厳しく規定されている。
 今回の偽装事件では、①が順守されなかった。つまり、サンジョヴェーゼに何か他のぶどうを意図的に混ぜた。理由はきわめて簡単。混醸したものが消費者の味覚に合っていたからだ。消費者が、いわゆるスーパートスカーナ化したブルネッロを求めるから、一部の生産者がそれに迎合した。これが今回の偽装事件の背景ではないのか。皮肉にも混醸ブルネッロは、本物よりも実は熟成が早く、また美味しいともいえる。しかし、ブルネッロではないワインを消費者にブルネッロとして売ったことは罪深い。長年ブルネッロを扱うことを職業の要にしてきた者として、「ブルネッロはモンタルチーノという恵まれたテロワールでほぼ完熟するが、ワインとしての熟成はゆっくりしている」ということを伝えておきたい。伝統地域からのブルネッロは、更に時間を要する。その典型がビオンディ・サンティであるとも言える。
 ブルネッロ生産者組合は、今回の食品偽装事件にどのように対処したのだろうか。「サンジョヴェーゼのみ」が圧倒的多数で再確認された。それにしても、イタリアとは不思議な国である。日本では、食品偽装を起こした会社はたちまち退場となり、その存続すら難しい。さらに、問題となったワイナリーが、今も米国の専門誌で高く評価されていることに違和感を覚える。それほど役に立たないかもしれないが、僕のブルネッロ体験が、このイタリア屈指の長熟ワインを楽しむ助けになればうれしく思う。