成田空港の弁当

 ワインの買い付けでイタリアと日本を往来するようになって25年がたった。最初のころ(1985-1991年)はアリタリアで往復していたが、フィレンツェに自分の車を預けるようになってからは、オーストリア、ルフトハンザ、スイスと航空会社を変えた。ウィーン、ミュンヘン、チューリッヒからフィレンツェまでの乗り継ぎは、ほとんどがプロペラ機で、気象状況によっては着陸できずにボローニャからバスでアペニン山脈越えをしたこともあった。
 父は9年前に亡くなったが、元気なころは母と一緒に成田空港まで見送りに来た。空港の近くの田舎町に住む二人にとっては、人混みを通るわけでもないので、すぐ近くに出掛ける感じだった。父はいつも僕に「ドロボーやスリに気をつけろ」と言っていた。当時は、まだキャッシュカードやクレジットカードで外貨を引き出せなかったから、それなりの現金を持ち歩いていたので、心配するのも無理なかった。そして、母は飛行機の中で食べるようにと弁当を持ってきた。弁当が僕の手に渡ると、彼らは第一ターミナルの送迎デッキまで移動して、飛び立つ飛行機に手を振っていたらしい。あのころは父も母も元気だった。
 飛行機の中の僕は、母が作ってくれた弁当を開けて食べ始める。おかずは二食分が折箱に入っていた。卵焼き、うなぎのかば焼き、村上の塩引き鮭、どんこの煮物がきれいに並んでいた。鮭は村上のもので、母の家には季節に関係なくあった。何年か前に母が鮭を取り寄せている店を訪ねて村上まで行ったが、その店は田舎のスーパー風の食料品店だった。母がこの店から鮭を買うようになった由来は、いまもはっきりしない。
 誰も食べていないのに自分ひとりで弁当を開けるのは恥ずかしかった。ここ10年間は、チューリッヒで降りて一泊してからフィレンツェに乗り継いでいた。二食目はチューリッヒのホテルで夕食にした。6年くらい前までは少なくとも年2回、母は父が亡くなった後も、ひとりで弁当を届けに成田まで来ていた。80歳になった時に、帰りが心配なので止めてもらった。母は離陸する飛行機に手を振った後で、空港内のラーメン店で塩ラーメンを食べて帰るのが楽しみだったらしい。
 一度だけ困ったことが起きた。1998年の春だったと記憶している。その前の年の11月に、僕は縁があって日本航空のジャンボ747-400の操縦室にミラノから成田まで乗せてもらう機会があり、エンジンの始動から、オーロラ、成田着陸までを見せてもらった。もちろん、友人の機長の一存でそんなことはできるはずはなく、会社の許可を得てのことだった。離着陸時のコクピットの張りつめた緊張感に息をのんだ。我儘を言って、98年の5月に今度は成田からミラノまで乗せてもらう許可を取っていただいた。このことを母に話すと「自分は日本航空のどの飛行機に手を振ったらいいのかな」と困惑気味に言った。母は、尾翼に赤十字マークがある飛行機に手を振って「元気で!」と叫んでいれば気が済んでいたのだ。同じ時間帯に飛び立つ日航機は他にもあるから困るというのが、母の気持ちだったのだろう。父は「お母さんが可哀そうだから、機長さんに滑走路に入るまえにシッポをパタパタしてもらうようにお願いしてみてくれないか」と呑気なことを言っていた。この時も母は特大弁当を持ってきてくれたが、恥ずかしくて手はつけずに機内食を食べた。
  最近、母にどうして飛行場に来ていたのかと訊いたら、「遠くまで仕事にでかけるのだから」と言った。そういえば、このごろは自分でもイタリアは遠いと思うようになった。それでもミラノに直行すると、旅人の気分になれないのはどうしてだろうか。