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Ceretto

Ceretto

チェレット

 チェレットのワインは輸入当時、そのほとんどに従価税率が適用されていたので、1988年以前に取引が始まったと考えられる。従価税率で輸入したチェレットのワインは、残念ながら一本も残ってない。ワイン原価に50パーセントを課税してくるのだから、当時の僕には資金的な余裕はなく、輸入した全量の通関は無理だった。通関業者に払う手数料がかさむのは覚悟のうえで保税倉庫に預けた。88、89、90年ヴィンテージのプラポー、ブルナーテ、ゾンケーラなどのバローロ群を、最近これといった基準もなく開けているが、20年の歳月を感じさせるものは少なく、自分が描いてきたバローロのワイン像に重なる。チェレットからはバルバレスコも相当な量を買い付けたが、遺物堂にほったらかしになっている。
 実は、ソアーヴェのアンセルミ(Anselmi)が1987年ころ、ヴィニイタリー(Vinitaly)というワイン見本市でブルーノ・チェレット(Bruno Ceretto)を紹介してくれた。ブルーノは、ヴィニタリーには費用効果がのぞめないとして参加していなかった。おそらく今もそうだろうと思う。ブルーノにはマルチェッロ(Marcello)という弟がいて、彼は醸造を担当していた。ブリッコ・ロッケのゲストハウスに宿泊した際に「ボンジョルノ」を交わすくらいで、いろいろと質問してみたかったが、とうとうバローロに関してはパンフレット程度の知識で終わってしまった。
 二回目にこのワイナリーに行った時の話。ブルーノは僕を出迎えにミラノのマルペンサ空港まで来てくれた。夕方六時ころ、彼のランチャに乗せられてバローロのゲストハウスに向かった。八時半にはバローロのレストランにいた。時差で朦朧としながら、バターたっぷりのタイヤリンとバローロ煮込みを食べた。まだ若かったとはいえ、体力的には限界になった。ここに来るのは、次回からは旅の終わりにしようと思った。
 1996年の初夏に突然、チェレットから取引を終了する旨の手紙を受け取った。この一カ月前にわざわざチェレットまで出かけて、その年の注文を出した直後だったので、唖然とするばかりだった。これ以降、同じようなことが、数えたら両手では足りないくらい起きた。そこそこ日本で売れるようになると、ちょっかいを出すインポーターが後を絶たない。このことに理非を弁じても仕方ない。チェレットは、僕の後はサントリーに移った。雑色の仮倉庫に、サントリーから3、4名の訪問があった。日本的にいう「挨拶」があったのである。こうした例はこれしかない。
 他社が組織的に日本市場に広めたワインには、一切手を出さない。自分のところから他に流出したワインはあっても、僕がちょっかいを出して持ち込んだものは、エトリヴァンのリストには一本もない。「一寸の虫にも五分の魂」という。エトリヴァンは、この気風を拠り所にワイナリーを、そしてワインを選択してきた。これからもそうありたい。これが、言ってみれば25年の輸入史で醸成された、エトリヴァン文化のようなもの。