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Ronco del Gnemiz

Ronco del Gnemiz &
Abbazia di Rosazzo

ロンコ・デル・ニェミッツ&アッバツィア・ディ・ロサッツォ

 ニェミッツとアッバツィアは、もともとひとつのグループであった。1990年、初めてこれらのワイナリーを訪ねた。エトリヴァンが20年以上取り引きを続けているセレツィオーネが扱いを始めることになって、僕も取り引き仲間に加わったのが、今日までに至るストーリーのはじまりだ。
 ニェミッツに初めて行ったのは1990年の4月で、イタリアは年初から少雨気味で気温も夏のような感じだった。この年はピエモンテ、トスカーナともに歴史的ヴィンテージとなり、蒲田の遺物堂にもブルネッロを主に相当数が残っている。2008年12月, ニェミッツのシャルドネを89、90、91年と開ける機会があり、これらのヴィンテージに自分史を重ねて飲んだ。これは職業上もめったにない経験で、結論から話すと3ヴィンテージともワインとして生きていた。91年は午前と午後で別々のボトルを開けている。午前中に会社で開けたほうが、やや傷みが進んでいたと判断した。僕は、ワインの熟成がピークを過ぎて下降線を辿っている状態を「傷む」と表現している。もちろん程度にもよるが、傷んだものを口に入れても美味しいと思えるのがワイン。ワインの熟成とは言いかえれば「酸化」の歴史。ワインもここまでの年輪を重ねると、一本一本にストーリーがある。ほぼ終日アルコール漬けになって、シャルドネ古酒のワイン像を自分の中に結実させた。これで職業人として、少しはまた成長できたかなと思う。 90年4月。このころ、ニェミッツとアッバツィアは修道院から借りた建物に入っていた。前者からはセレーナ、後者の長男夫人、アンナが机を並べていた。修道院のバルコニーから見えるのはぶどう畑。正面遥かにアドリア海、左手にスロヴェニアの丘陵が広がる。ぼんやりと「神に奉仕する人たちの特権か」と納得するくらい素晴らしい風景だった。以来、何度か秋にもここを訪れたが、その美しさは日本の紅葉にも引けを取らない。ぶどう畑も品種によってはきれいに紅葉するからだ。バリックは、修道院の地下に整然と列を作っていたが、どことなくカビ臭が漂っていた。
 ニェミッツを統率するのはセレーナで、エトリヴァン20周年記念ワイン会(2006年10月)にも来てくれた、ニェミッツとアッバツィアのパートナーシップは、1995年ころに解消され、その後でいろいろな変化がおきた。しばらくアッバツィアとの取引は何事も無く続いたが、突然、大手の輸入業者に販売チャネルを移した。売れるとなれば何でもするのは、商売ではごくごく当たり前だが、イタリア人は事前の打診もなく、ある日突然、ファックス一枚、今なら電子メール一行で事を済ませようとする。本当にたまにではあるが、アッバツィアの古酒を開ける。その感想を送ると返事が来る。話は脇にそれる。アンナは婚姻関係を解消して、今はコルモンスの町中でペンションを経営している。ここにも2年前の9月に泊まり、旧交を温めた。
 セレーナの家とワイナリーは同じ敷地内にある。大きな飼い犬が居て、車が着くと吠えながらこちらに向かってくる。苦手なので、セレーナが出て来るまで車のドアは開けないようにしている。台所と食堂を兼ねたスペースでいつも試飲させてもらうが、実は僕はこの台所の窓からの景色が好きだ。窓に顔を近づけてちょっと窮屈な姿勢になるけど、こうすると丘の上にアッバツィアの修道院、その右手にスロヴェニアの山陵が見える。試飲をしながらの昼食が終わりに近いころ、ワイナリー仲間が訪ねて来る。プリンチッチ(Princic)、ローザ・ボスコ(Rosa Bosco) 、シルク(Sirch)たちとは、こんな雰囲気の中で知り合いになった。ここにはいつも「朋有り、遠方より来る。亦楽しからずや」の風が流れている。フリウリの人たちは素朴で温かい。ここにはまた別のイタリアがある。

アッバツィアは、1990年より2001年ヴィンテージまで生産者から輸入。ニェミッツは、1988年ヴィンテージから現在まで生産者から輸入。


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